村上宗隆の天覧試合「腕組み・ガム」は不敬?炎上に見るマナーの正体と違和感

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村上宗隆の天覧試合「腕組み・ガム」は不敬?炎上に見るマナーの正体と違和感
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2026年3月8日のWBC(ワールド・ベースボール・クラシック)の「日本対オーストラリア」戦。
この一戦は、天皇ご一家が観戦される「天覧試合」として、東京ドームは異例の熱気に包まれました。

しかし、試合そのものの結果以上に世間を騒がせているのが、MLBのシカゴ・ホワイトソックス所属・村上宗隆選手の振る舞いです。

試合終了後、天皇ご一家が退席される際に、村上宗隆選手がガムを噛みながら腕組みをしていた姿がカメラに映り込み、「不敬である」「礼儀がなっていない」とSNSを中心に激しい批判を浴びています。
中には「反日アピールをしているのか」という過激な憶測まで。

この騒動を目の当たりにし、私はなんとも表現し難い違和感を覚えました。

あれ? なんでみんなこんなに怒ってるの?
陛下はお優しいから、こんなことで怒らないと思うよ?

「無礼な態度」とは思うけども、こんなに寄ってたかって叩かなくても…とも思ってしまいます。

私たちはいつから、皇室に対して「一糸乱れぬ敬意」を払うことを、「当然の義務」かのように他人に求めるようになったのでしょうか。

その背景にある「日本人の皇室観の変遷」について、現在40代の私が感じてきた空気感と共に整理してみたいと思います。
その上で、村上選手のことを批判する現代日本の空気感について、思うところを書き綴ってみました。

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目次

かつての景色:「政治的制度」としての皇室

私たち40代以上の世代が若かった頃、20年から30年くらい前でしょうか。
日本社会における皇室を取り巻く空気は、今よりもずっと複雑で、どこかピリついたものでした。

当時は、天皇制を「制度」や「政治的思想」として捉える視点が強く、
皇室を「敬う対象」として見るよりも先に、憲法上の象徴としての「是非」を問う議論が盛んでした。

国旗や国歌に対しても「軍国主義の再来ではないか」と警戒する声が根強く、テレビの文化人が冷ややかな目線で皇室を語ることも珍しくありませんでした。
教育現場でも、卒業式で『君が代』の起立や斉唱を巡る対立が、毎年のようにニュースになっていた時代です。

▼そんな騒動の時代もありましたが、ミラノ五輪の影響もあり、「君が代」の素晴らしさがいま見直されています。

皇室を熱心に追い、好意的な目線を向けるのは、一部の高齢層や「皇室アルバム」のような番組を愛好する特定の層「皇室マニア」に限られていた印象です。

この時代の多くの日本人にとって、皇室は「慎重に、かつ客観的に扱うべき政治的な存在」でもあったのです。

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現在の景色:SNSが生んだ「リスペクトの対象」

ところが令和の今、その景色は一変しています。

今の多くの日本人が抱いているのは、制度に対する批判的な視線ではなく、天皇ご一家への「純粋な好意」です。

なぜ、これほどまでに空気は「ほっこり」したものに変わったのでしょうか。

その背景には、SNSという新しいフィルターの存在があります。

かつては遠い存在だった皇室ですが、今は天皇皇后両陛下をはじめ、長年国民に寄り添ってこられた上皇ご夫妻、そして愛子さま、佳子さま、悠仁さまといったお若い世代の皇族方に至るまで、その誠実なご活躍がSNSを通じて共有・拡散されるようになりました。

公式の広報以上に、一般の国民が投稿する「こんなに素敵なお人柄」「寄り添うお心がすごい」といった感動の声が大きな波となり、SNSを通じて私たちの元に届く。
その結果、ご一家が積み重ねてこられた「品格」や、理想的な家族としての「徳」が、現代人の心に深く刺さったと言えます。

今や、皇室は憲法で定められた「制度」という枠を超え、一種の「リスペクトの対象」。
言葉を選ばずに言えば、圧倒的な品格を持つ「推し」に近い存在として、国民の心に定着しているように感じます。

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「マナー」という曖昧な同調圧力

ここで村上宗隆選手の件に戻ります。

天皇ご一家の退場時に「村上選手がガムを噛みながら腕組みをしていた」ことが、これほどまでに糾弾される根拠とは何でしょうか。

もちろん、「アスリートが天皇陛下に対してどのように振る舞うべきか」という明文化されたマナーブックが選手たちに配布されているわけではありません。
退場時に起立し、脱帽して見送るという行為は、あくまで長年の慣習や周囲の空気が作り上げた「暗黙の了解」に過ぎないのです。

今回の村上宗隆選手への批判には、正体の見えない「同調圧力」の怖さを感じずにはいられません。
かつてのコロナ禍において「お葬式には黒いマスクを着用すべきだ」という、根拠のないマナーが突如現れ、従わない者を叩く「マナー警察」が横行した時の不気味な空気感に似ています。

アスリートにとって、ガムを噛む行為は脳の血流を促進し、集中力を高めるための合理的なルーティンとして現代のスポーツ界に広く定着しています。
試合後に村上宗隆選手がそのままガムを噛み続けていたこと自体に、天皇ご一家を蔑もうという悪意などなかったはずです。

ただ、ここで一つ考えさせられるのは、対戦相手であるオーストラリア代表の姿です。
彼らは全員が帽子を取り、一列に並んで深々と一礼して天皇ご一家を見送りました。
個人の人柄や国民性もあるのでしょうが、おそらく彼らは日本の文化や「天覧試合」の重みを事前にレクチャーされていたのでしょう

だとすれば、日本側はなぜ、若干26歳の村上選手に、というかチーム全体に対して、「今日は天覧試合だから、最後はこうしようね」と共有しなかったのでしょうか(子ども扱いしすぎですか?)

世の中には、どれほど優れた人間であっても、悪気なく「場の空気」を読むのが苦手な、いわゆる「天然」な人は存在します。
26歳という若さで、野球に人生のすべてを捧げてきた村上宗隆選手が、現代日本がいつの間にか形成していた「皇室への敬意」という空気の濃度を読み違えてしまったとしても、それは責められるべき罪ではなく、単なる「教えの欠如」だった可能性もあるのではないでしょうか。

まともな大人(マナー警察じゃない人)が「今はこれが礼儀だよ」と教えることもせず、時代の空気を読み違えた若者を「クズ」だと一斉に叩く風潮。
その無機質な攻撃性が、今の日本社会の余裕のなさを象徴しているようで、私はそちらの方がよほど恐ろしく感じてしまいます。

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「マナー」の正解ってなんだろう

私たちは何を大切にし、何をマナーとして次世代に伝えていくべきなのでしょうか。

実は、私たち大人世代も、マナーに対して明確な答えを見出せないまま生きています

マナーとは本来、「相手を思いやる心から出る所作」のはずですが、今の世の中では「大多数と違う行動をとる人を叩くための武器」になっている気がしてなりません。

明確な決まりがないからこそ、その時々の「空気」で正解が変わる。
昨日までの常識が、今日には非常識として炎上の対象になる。
そんな不安定な価値観の中で、村上宗隆選手の腕組み一つに対して、過剰なまでの怒りをぶつけすぎていないでしょうか。

村上宗隆選手が、もしこの「空気」に気付かなかったのだとしたら、それは「かわいそうなうっかり」だったのかもしれません。

しかし、それを許さない現代の「マナー警察」たちの視線が、今の日本社会の息苦しさを象徴しているように思えてなりません。

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まとめ

今回の村上宗隆選手の騒動は、私たち日本人がいつの間にか共有するようになった「皇室への強い敬意」という空気の存在を、改めて浮き彫りにしました。

かつてはどこか「政治的な対象」として距離を置いて見られていた皇室は、今やそのお人柄が愛される、親愛の対象へと変化しています。

その変化自体は素敵なことかもしれません。
しかし、その「新しい空気」を読み取れない者を、「マナー」という刃で一斉に糾弾する今の社会の緊張感には、どこか息苦しさを感じます。

もちろん、26歳のプロのアスリートであれば「しっかりしろよ」と言いたくなる気持ちも分かります。
しかし、野球という勝負の世界に全力を注いできた村上宗隆選手が、その場に流れる濃密な空気を読み違えてしまったとき、ただ叩き伏せるのが正解なのでしょうか。

マナーとは本来、誰かを見張ったり裁いたりするための道具ではなかったはずです。

もし、村上宗隆選手が気付かなかったのだとしたら、周囲が「今日はこうしよう」と一言添えておく。
そんな、小さな「情報の共有」と、間違いを執拗に追い詰めない「心のゆとり」。

正解のない「マナー」という言葉で若者を追い詰めるのではなく、互いの無頓着さを補い合い、許容し合える。
そんな、マナー警察の見張りがいない「優しさ」のある世の中であってほしいと願います。

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